「ディスレクシア神話」への批判はいろいろあります。どれも似ているのでひとつ紹介してみましょう。ここでは,ヨーロッパ流のディスレクシアは日本の「学習障害」に置き換えて考えて下さい。これは、アメリカの全米健康研究所(HIH)の一四年間の縦断的研究の結果と言うものをBright solutions for Dyslexia,Inc.というインターネット上のホームページに掲載されていたものです。神話批判2は、後述のようにディスレクシアと学習障害は異なることを強調しています。ここにも概念の混乱状況が見られます。
神話批判1
「ディスレクシアに対する根強い神話」
○ディスレクシアは存在しない。
○ディスレクシアは「誰にでも当てはまる」用語である
○知能と読み能力は関連がある。それ故、読むことができない場合は頭がよくないからである。頭のよい人はディスレクシアはならない。
○ディスレクシアはまれである(5%又はそれ以下)
○ディスレクシアを診断する方法はない。
○ディスレクシアは8歳から十一歳まで診断できない。
○幼稚園から三年生で読みや書きの問題を経験した人はこの問題を増幅する。そういった子どもは発達遅滞である。
○落第は読み書きの獲得の助けになる。なぜなら、落第は成熟させ、発達的な読み準備をさせるからである。
○子どもは成長することでディスレクシアを克服する。
○ディスレクシアは視覚的問題である。それ故、視機能の治療、目の調整訓練、色レンズなどが問題を解決する。
○ディスレクシア児は物事を逆に見る。
○ディスレクシアは英語を話す子どもにだけ起きる。
○ディスレクシアは女の子よりも男の子に四倍も多い。
○bとd、pとqをまちがえる子どもはみんなディスレクシアである。
○鏡文字を書いたり、さかさ文字や数字を書いたりしない子どもはディスレクシアではない。
○子どもの読みを援助する方法は一日に最低二十分読みを子どもに強制的にさせなければならない。
○ディスレクシア児は決して上手に読めるようにはならない。補償することを教えるのが一番よい方法である。
○もし12歳までにディスレクシア児に読みを教えないならば遅すぎる。12歳過ぎては読みを学習することはできない。日本語でもしひとつこれに付け加えるとすれば、日本語には仮名と漢字があるので読み障害は欧米に比べて少ない、という神話をあげることができるでしょう。
神話という意味は、これらの本当らしい話しは実は本当ではない、ということです。日本の学習障害の最近の動向を見ると、気のせいかこれに当てはまるものが少なくないように思われてきます。
おそらく、欧米にはこういう批判のスタイルがあるのであろうが、もう一つ神話批判がある。内容一部重複するが見ておきます。
ディスレクシア神話批判2「ディスレクシアに関する共通の神話」
Louise Brazeau-Ward:I am confused, is it
dyslexia or is it Learning Disability?
・ディスレクシアはまれである(23%)
・ディスレクシアは生活でやっていけない。ディスレクシアの大多数は人間性に何か大きな問題を抱えている。
・ディスレクシアはその子どもの成功を妨げている。(あなたの子どもはディスレクシアがあるにもかかわらずうまくいかないのではなく、ディスレクシアの故にうまくいかないのだ)
・ディスレクシアは学習障害である。(ディスレクシアは学習障害ではない、そうではなく、通常は有益でない指導の結果として学習障害になるのである)
・診断は困難である(われわれが何を求めているかを知っていれば診断は容易である)
・読み困難は年齢と共に消えていく。(もしディスレクシアであればそうではない)
・留年はディスレクシアを取り除くことができる(第一にあなたを失敗させる同じことをより多くすることになる)
・ディスレクシアは文字や数を逆さにするものだけである(ディスレクシアの10%だけが文字を逆にする)
・ディスレクシアは子どもに読んであげることができない親が作る(ある親は子どもにしばしば読み聞かせており、ある親は作家であり、本やであり、翻訳家である)
・ディスレクシアは3年生まで診断できない(幼稚園で診断すべきである)
心理士だけがディスレクシアのある人をアセスメントできる(もしその心理士がディスレクシアのある人のアセスメントのトレーニングを受けていれば、である)
著者はなぜ、こんなまちがった情報がいまだに存在するのか、自問してみると3つの重要な点がありそうに思う、と次のように考える
第1は、教師教育の問題である。教師は早期に適切にディスレクシアを診断できるように要請すべきである。
第2に、われわれが使っている既存のアセスメントモデルを変えることである。ディスレクシアは多くの学習困難の内のひとつである。ディスレクシアはしばしば学習障害(LD)と同義語として使われるが、それが不適切なアセスメントや診断の混乱のもとになっている。
ここで、ディスレクシアまたは学習障害の分類、あるいはサブタイプが問題となるがこれは分類・サブタイプの項で取り上げる。
第3は、われわれはもっと多くの特殊な「特殊教育」(specialize “special Education”)を必要とする。これらの子どもたちがUSAの特殊教育の恩恵に浴することができるようにするために、1962年に「学習障害」が刻み込まれた。しかし、すぐに状況は悪化した。要するに精神遅滞の教育を受けることになったのである。そこで、冒頭の,われわれはもっと多くの特殊な(特殊化された)「特殊教育」を必要としている、ということばとなる。日本の特別支援教育という不可思議な制度に困惑させられ、既存の特殊教育の衣替えで新たな発達障害に対応しようとする見えすぎた魂胆が、結局はアメリカの教訓が教えるように学習障害児への適切な教育の普及を送らせることになるのではないかという危機感をいだかせる。
学習障害とディスレクシア
ディスレクシアは学習障害のひとつである、とする立場がある。アメリカの連邦法の立場で、ディスレクシアは、学習障害のひとつである読み障害とする。
サリー・シェイヴィッツはこの立場である。と言うより、音韻意識コア障害仮説がこれになる、と考える方が適切である。
Sally E. Shaywitz, M.D., and Bennett A.
Shaywitz, M.D.:The Neurobiology of Reading and
Dyslexia?
(NCSALL HomeAbout NCSALLResearchPublicationsConnecting Practice,
Policy & Research)
すなわち、「発達的ディスレクシアは、読みの予想外の困難(an unexpected difficulty)によって特徴づけられる」といい、その特徴は、「書き」を完全には否定しないまでもほとんど実際上は無視するということである。試しに、彼女の著書の日本訳『ディスレクシアのすべてがわかる』約300ページの中で、「書き」が何ページ取り上げられているかを数えてみてほしい。それは、彼女の問題と言うよりは、欧米のディスレクシア研究の問題点であり、音韻意識コア障害仮説のなせる業である。
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